dokusyomemoのブログ(読書感想)

ぼちぼち読んだ本の感想を書いていきます。

代表の概念 ハンナ・ピトキン

・本書の目的
本書の目的は
「代表とは何か、どのようなものか、という問いを「代表」という概念が何を意味するかという問いと完全に切り離すことはできないのである。本書は、後者の疑問に答えることで、前者の疑問に取り組もうとするものである」2p

具体的には、オックスフォード哲学の用いた概念分析を行うとともに、政治思想史における代表論を検討することで、代表の概念の分析を試みています。

ホッブズにおける代表概念
2章では、ホッブズにおける代表の概念が検討されます。まず、ホッブズは「人格」と「人間」を区別しており、また、「人格」に「自然的人格」と「人為的人格」を区別します。
自然的人格とは「その言葉や行為がその人自身のものだと考えられる」ものであり、人為的人格とはそれが他人のものだと考えられるものです。
行為について、それが「他人のものだと考えられる場合」とは、「権威」=行為をする権利が他人に属する場合といえます。行為をする権利を持っている人は、自分で行為してもいいし、他人に行為させてもいいわけです。例えば、代理や、委任、許可によってなされる行為がここで思い浮かびます。
そして、この権威には責任が付属してきます。(行為者ではなく)権威をもって行為するものが責任を負います。権威を与えられることで権利と特権が発生し、権威を与えたものには義務と責任が課せられます。この「権利と責任の関係」が代表である、と結論されます。
つまり、代表者とは、被代表者から権威を付与されたもののことであり、また、権威、そして責任が属するのは被代表者である、という関係にある。
しかし、ホッブズはつねにこの定義に基づいて代表を論じているわけではない、とされます。この定義に従えば権威を付与されることにより、代表者は「無制限の代表者」である、とされます。
リバイアサン」でも主権者について基本的にはこのように論じられています。しかし、実際には、主催者も自然法によって、「人民の安全」という目標にむけて義務付けられます。この義務は代表によって与えられた義務ではなく(義務は被代表者にあります)、主権者としての義務です。主権者は被代表者にたいして代表者としての義務を持たないので、被代表者は主権者にたいして請求権ももたないということになります。しかし主権者としての義務を無視することによって、主権者は主権者たる資格を失うことにはなります。
では結局われわれはこのような主権者を代表者とよぶことができるのか。そこにホッブズの代表概念とわれわれの代表概念の違いがあると思います。
著者は、ホッブズの代表概念は狭い、といいます。代表という概念にはそれ自体、「主権者は義務を負うという考え方が内在している」からです。一方で、ホッブズはこの義務を、権威付与の理論によって否定します。この点がホッブズの代表概念にはかけている、というのです。

・権威付与型代表観

そしてこのホッブズの代表概念は政治思想の歴史の中で繰り返し現れる(そして同じ難点が繰り返し登場する)と著者は指摘します。著者はそれを「権威付与型代表観」となづけています。また、それを3つに分類します。
1:「機関」の概念を中心とするもの
2:民主的な代表制政府を説明しようとするもの
3:エリック・フェーゲリンの研究に置いて詳述されているもの
しかし結局、これらの理論の問題点は、同じく「代表」という言葉で表されつつも、政治的意味の代表とは異なった意味を持つ概念――「代表的事例」といった(他にいくつかのrepresentationの派生語が例示されている)――を説明することができないのではないか、と指摘します。
「代表という言葉の異なる用法を無視することによって、現に自分たちの目の前にある事例、つまり行為に関連した代表の事例に対してでさえ、不完全でゆがんだ見方をするようになってしまったのではないだろうか。」73p
というわけです。


それに対して「代表者とは説明責任を問われるものである」とする「説明責任型」代表論が比較され、しかし、これらのいずれも「形式的」です。では「実体的な内容にまで手を伸ばそうとする」にはどうすればよいでしょうか。

・描写的代表観

そこで、代表を一種の描写、現実の地図に近いものとして理解する考え方が検討されます。描写的代表観と名付けられ、「写し絵」「鏡」「反映」の3つの累計があります。政治的には、この代表観は正当性を与えるものになるでしょう。この立場は代表が「なんであるか」(写し絵となっているか、云々)に重点をおきます。上の形式主義的代表観が「何をするか」(権威を与えられ行為するか、あるいは説明責任を負うか)に着目していた点と比較されます。完全な反映をめざすなら、それは比例代表制と結びつくことになります。
(芦部教授が「社会学的代表」として述べている点、参考になるかもしれないので引用します。
「そこで、特に第二次世界大戦後、(…)議員の地位の国民意思(具体的には選挙)による正当化が強調され、国民意思と代表者意思の事実上の類似が重視されるようになり、社会学的な観点を含めて代表の観念を構成する考え方が提唱されるようになった。日本国憲法における「代表」の観念も、政治的代表という意味に加えて、社会学的代表という意味を含むものとして構成するのが妥当である。しがたって、具体的には、国民の多様な意思をできる限り公正かつ忠実に国会に反映する選挙制度憲法上要請されることになる」芦部憲法 14章 国会 2 国会の地位)

しかし、ここに問題があります。代表することと代表性(典型性)とのあいだにはずれがある、という点です。すなわち選挙においては常に代表制を持った人が選ばれるわけではなく、結果として代表性をもたないものが代表することになる、ということが起こるからです。このずれは、結局代表の正当性を奪ってしまいます。
この難点を克服しようとなされた様々な試みが紹介されます。そのなかに、代表を活動として理解するものがあります。活動といっても、形式主義的代表観が言う意味での活動とは異なります。この試みは、「情報を与えること」としての活動が、代表行為なのだ、とするものです。情報とは、代表者が代表しているものについての情報です。ある職能団体の代表であれば、その職能団体についての情報を与えることをいいます。

しかし、やはり描写的代表観には難点が存在する、とされます。(やはり一面的とされます)特にそれは、代表の正当化根拠として理論を用いようとするときにあらわれます。結局のところ、ある集合の代表とは、完全な像ではありえません。とすれば、どの特性を重視するか、という論点が現れてきます。そして、その特性と代表者が実際に行う行為との間にどのようなつながりがあるのかが明らかでない以上、この「正確さという概念は間違った方向へと議論を誘導してしまう恐れがある」119pのです。

・象徴的代表観

次に検討されるのは「象徴的代表」です。象徴的代表とは、代表を象徴化の一種とみなし、政治的代表者についても、国民を代表する旗などをモデルとして理解する考え方です。
象徴一般の特徴から、象徴的代表観には
1:象徴が慣習的・感情的・非合理的な心の反応に基づく点から→非合理的な心理的反応の役割を、代表が可能になる条件として重視する
2:象徴の創出過程を重視する
という特徴がみられる、とされます。
では、これが政治に適用された場合、どうなるのでしょうか。少し引用します。
「それは本質的に静的な「写し出す」種類のものとなるのだが、それは象徴的で儀礼的な機能を果たす際の国家元首の例にはっきりとみることができる。私たちは、一方で「現実的」な目標の実現を合理的に目指す実践的活動と、他方で感情の表出にかかわる象徴的行為とを区別する。そして、元首の行為がまさしく儀礼的なものにとどまるその限りで、私たちは元首を象徴だとみなす。」135p
そして象徴的行為における例を考えればわかるように、代表とは「一種の双方向関係」となります。結論として、この説は「統治一般の統合機能」、「国家の創設」などを説明することに役立ちます。一方で、これはファシズムを説明する理論ともなります。というか、理論的にファシズムを否定しづらくなる、というのがこの説の難点である、と著者は指摘します。
つまり、「象徴化論者たちのように、代表するということは有権者に満足を与え、受け入れられていることと同じ意味になる、と言ってしまうと、象徴の例によって間違った道へと誘い込まれるがままになってしまうのである」というわけです。
とすればどうすればよいのでしょうか。まず、象徴によって代表される形式があることを著者は認めます。(宗教など)そのうえで、それを全面的に政治に適用してしまうと、道を誤る、といいます。「指導者を象徴とみなすというのは、せいぜいのところそのリーダーシップを受け入れる根拠の一つにすぎず、唯一の根拠であるわけではない」からです。

・委任―独立論争

次に、「他者のために実体的な行為をする」という意味において代表をとらえる考え方が検討され、つづいて、「委任-独立論争」が取り上げられます。
両者の対立点は
「代表者は選挙区民が望んでいることを行い、その委任や指示に拘束されるべきだろうか。それとも、代表者は選挙区民の福利を追求するため自ら最善と思うとおりに事由に行為することができるべきだろうか。」p193
という点にあります。

・ナシオン主権とプープル主権

この点、ナシオン主権とプープル主権の論点ににている点があるので、少し紹介しておきます。
フランスの近代市民革命期において、主権原理に二つの考え方がありました。ナシオン主権とプープル主権です。
ナシオン主権では国民を抽象的な存在として考え、代表者によって代表されることでしか自分の意思を持てない、としました。そこから、代表者に対して国民は何ら要求できないことになる→間接民主制、自由委任が導かれることになりました。
対して、プープル主権の考え方では、国民は具体的な市民の集合体としてとらえられました。そこで、代表機構にたいして、国民意思のコントロールが及ぶ、ということが主張されました。これは直接民主制、そして強制委任を要求するようになった、というものです。
これと関連して、諸国家の憲法は議員にどのような種類の委任を行っているか、という論点もあります。日本国においては、憲法43条の解釈から、国民を政治的意味の代表としてとらえる考え方が通説となっています。すなわち、
「1議会を構成する議員は選挙区ないし後援団体など特定の選挙母体の代表ではなく、全国民の代表であること、したがって、
2議員は議会において、自己の信念に基づいてのみ発言・表決し、選挙母体である選挙区ないし後援団体等の訓令には拘束されないこと、
すなわち、近代憲法成立以前の身分制議会(…)の構成員のように、選挙母体の訓令に拘束され、訓令を守らないと召還される命令委任(強制委任)は禁止されること、を意味する」(芦部憲法 14章 国会 2 国会の地位)
この結果、政治的代表は、「議員は国民のために活動する意思を持てば足りる」とされます。ただ芦部教授は、この政治的意味の代表という考え方に加え、社会学的意味の代表という観点を加味して日本国における代表制を構成する点主張しています。(社会学的意味の代表については、上述の引用参照)

本書にもどると、代表を委任ととらえる見方も、独立ととらえる見方も、どちらも難点があります。結局のところ、問題構成に難点が存在する、と著者は指摘します。

・政治的代表

続いてエドマンド・バークの代表観と、自由主義的代表観が検討されたのち、最後に、これらを総合して、政治的代表とはどのようなものか、ということが考えられます。
まず、代表観の定式化がのべられます。

「被代表者の利益になるように、被代表者の声に応じながら行為することを意味する。代表者は独立して行為しなければならない。代表者の行為には自由な裁量と判断の余地がなければならない。代表者こそが、行為者でなくてはならない。被代表者もまた、ただ世話をされるだけではなく、独自の行為と判断が可能で(あるとみなされ)なければならない。その結果、代表者と被代表者との間で、何がなされるべきかについての対立の可能性も生じるのだが、それにもかかわらず通常その対立は発生してはならない。代表者は対立が生じないように行為しなければならず、もし争いが生じた場合には説明が要求される。代表者は、被代表者の利益の観点からして十分な理由もないのに、つまり、被代表者の要望とその利益がなぜ一致しないのかを十分に説明することなく、その要望にずっとそむき続けるような状態にあってはならないのである」276p
そしてこれは「外枠」であるとしたうえで、その内容は多様なものが含まれる、とされます。

代表的政府

次に、「代表制政府」の観念が検討されます。これは単に政府が(ある一つの意味で)国民を代表している、ということとは異なる概念です。例えば、「同意」は代表制政府の要件ではない、とされます。
「もし、体制への支持が、マスコミュニケーションの媒体に対する管理を独占することによってねつ造されており、反対派への厳しい弾圧もそれを補っているとしたら(…)人々の真正な利益が少数の支配者の利益のために搾取されているわけではないと証明することはできない(…)」(christian bay,the structure of freedom p.322)
代表制政府とは、そのほかにも「責任」や「潜在的な応答性」という面から概念画定されます。しかし、それでは「代表制政府という考え方は、非常に印象論的、直感的で、一過性のもの」に思えてしまいます。結局、われわれがどう思うか、によって確定されるものなのでしょうか。
そうではなく、代表制政府は、「長期的で体系的な仕組み」によって定義されるものだ、とされます。具体的には選挙制度やその公平さとかかわってきます。また、公益や世論に政府が確実に応答するような仕組みがあるかどうか、などです。そして、この考え方は目的と制度化とのあいだで緊張関係をはらむことになります。
代表の概念のなかにはこの二重性と緊張関係があります。つまり、代表を制度的に定義すると、それについて判断・改善しようとする試みは遮断されてしまいますし、逆に、理念にしたがって目的を定義すると、制度の不平等を最終的に是認してしまうことになりかねないからです。
本書は、この持続的な緊張関係こそが代表の概念である、と結論します。

本書は、複雑な代表観念を明晰に整理しています。それぞれの代表観の特徴とその問題点を剔出する思考過程には、非常に学ぶところが大きかったです。