dokusyomemoのブログ(読書感想)

ぼちぼち読んだ本の感想を書いていきます。

「超越と実存」

はじめに、注意点として、本書を読むには、仏教史までとはいわずとも、本書に記載された思想の大枠くらいは知っておいたほうが読みやすいと思います。
本書は、ゴータマ・ブッダから道元までの仏教思想を、「無常」観念の展開とともに追ったもの、とひとまずいうことができます。けれども、その追い方が個人的な「問題意識」から出来しているという点が、本書をユニークなものとしています。

 

まず、本書のタイトルになっている「実存」と「超越」について。
「実存」とは、「仏教では「無常」と呼ぶ」ものであり、「存在根拠が欠けている」と考えられるものとされます。
そして「超越」とは「実存の外部から、実存の仕方に対して決定的に作用」するものとされます。
そして、世のあらゆる思想を「仏教と仏教以外しかない」と(やや「乱暴」に)剪断したうえで、その区別は
「「実存」を「超越」との関係で考えるのか(仏教以外)、「超越」抜きで考えるのか(仏教)どちらかだ」
という点にある、とされます。

しかしそうすると、著者の用語法でいう「仏教」の歴史において、「仏教以外」が浸透してしまっていることはすぐに気が付きますが、本書はまさにこの点に焦点を当てます。
「私が狙うのは、ゴータマ・ブッダに淵源する、私が最もユニークだと思う考え方が、その後の言説においてどのように扱われ、意味づけられ、あるいは変質したかを見通すことである」
著者もことわっている通り、本書は通常な意味での仏教思想史ではありません。仏教史を、上述の(哲学的な)解釈軸のもとに眺め渡したものだといえます。
ところで、本書においてもう一つ重要なのは、言語の観点です。
「私は、仏教思想の革新にある問題は言語、より正確に言えば言語において意味するものと意味されるものの間にあると考えている。事実上、本稿で議論の軸をなすのは、表立って言及するかどうかは別として、言語なのである」
例えば、ブッダの章では
「このデカルトのコギトを髣髴とさせる「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>」は、まさに言語機能としての意識のことだというべきである。
とすれば、その「制止」を、つまり言語機能の停止と意識の解体を、ある方法、すなわちネーランジャラ―川のほとりでの禅定で、ブッダは成し遂げたのであろう」
と書かれており――この境地はけして「超越的境地」とみなされてはいけない、と続く――そして、部派仏教の章では
「ここで重要なのは、我々が日常何者かが「存在する」というとき、それは「妄想」だと言っているということである。つまり、それは認識や判断、結局は言語の問題なのだ」


と批評され、また、法華経や浄土経典、密教経典の章では、「言語機能が起こす「錯覚」」が「実存を規定する「真理」」へと転換させられる様子が描かれるように、本書は徹底して「言語」の問題として仏教史を捉えなおしています。
そして、道元にいたって、ブッダと億劫相別れても、而須臾不離とでもいうように、「非思料」の座禅によって、「錯覚」たる「自意識を一定の身体技法で解体」するという地点に戻ってくるのは、本書でもっとも印象を残す部分だと思います。